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「ダ・ヴィンチ・コード」2006年 アメリカ映画

 

 世界中で話題をさらった小説を読んでから、同じく記録的な観客動員という映画を観に行った。

 小説は予想のつかない展開と造形のはっきりした登場人物の配置、饒舌かつわかりやすいウンチク等、非常におもしろく、キリスト教になじみの薄い者でも物語の中の複雑な謎解きにぐいぐい引き込まれてしまう。そこで明らかにされる事実?の骨子は次のようなものだ。ローマ帝国がキリスト教を国教とした際、それ以前は偉大な預言者だとされていたイエスの人間的な側面をすべて剥ぎ取って神と規定し、それが現在の信仰の形となった。人間イエスは実はマグダラのマリアと結婚、磔刑時妊娠していたマリアはフランスに逃れて彼の子を生み、その子孫はメロヴィング王朝に伝わった。テンプル騎士団やシオン修道会が代々、聖杯とともにマリアの棺や秘密文書を守ってきたが、この聖杯は実は女性の子宮、すなわちイエスの血脈を表している・・・・。そして、この聖杯のありかを追って、小説のストーリーは進んでいく。

 映画について言えば、現在我々が眼にしている図像が、実は歴史の変遷の中で本来とは違う意味を与えられていることを説明する小説の長いくだりが、映像の力で分かりやすくまとめられていたし、あの長い小説を、要所を押さえながらよくまとめたなと思う。しかし、エンターテインメントとして楽しむには、どこか焦点がぼやけていて山場もはっきりしない。また、過剰なほど懸命に説明している割には、この映画だけを観た人には問題が何なのかがわかりにくいのではないかとも思った。

 ちなみに、映画と小説では、オプス・デイの司教アリンガロッサとファーシュの部下コレの描き方が違う。小説でなぞの導師にただ忠実に従う前者は、映画では、イエスの血脈の破壊に積極的な攻撃的な人物だし、小説では若くドジなコレは、映画では老練なベテラン刑事。また、映画ではファーシュがオプス・デイのメンバーで、主人公ラングドンが容疑者だという情報をアリンガロッサから得たということになっている。小説の彼は、女嫌いの徹底したマッチョな人物で、コレにいぶかられるほど今件に限ってイライラしているという設定のため、きっとオプス・デイとの関係が描かれるはず、と思いながら読んでいたので、映画のこの設定は納得した。

 小説は確かにおもしろかったが、作者が途中で複雑すぎる構想に疲れた感がある。あれほどラングドンの逮捕に執着したファーシュは、急に間違いをあっさり認めて捕り物は中断。ティーブングがピストルをつきつけて謎解きを迫る場面は、城や機内での会話は何だったの?と、唐突さにびっくりだ。また、すべてのなぞがソフィーその人に収斂するのも、途中から予想ができるものの、作品全体が急に寓話のような様相を帯びてしまう。

 ところで、フランス語版「DA VINCI CODO」を読んでおもしろいことに気が付いた。日本語版は上・中・下の分冊だが、フランス語は分厚い一冊のみ。上・中巻がどこで分かれているのかと日本語版を立ち読みしたら、フランス語版にはない部分を見つけた。ラングドンとヌヴーがリヨン駅からティービング邸までの逃避行の間に通るブーローニュの森が、あやしげで放埓な“快楽の園”として、長い行数を割かれている。世界に誇るパリの美しい森のこのような描写がフランス人訳者には気に入らず、ストーリーに関係ないことをいいことにごっそり削ったのだろう。この事実を知ったとしても、多分フランス人たちは怒らないどころか支持するような気がするが。

   

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