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「マリー・アントワネット」

           2006年 アメリカ映画

 

 14歳でオーストリアからフランスへ嫁し、フランス革命の嵐の中37歳の若さでギロチンに消えた王妃の物語を、彼女の視点から描いた作品。幼いまま、重苦しい慣習の支配するフランス宮廷に放り込まれたアントワネットは、夫の愛情を得られない苦しみと孤独から、次第に浪費と快楽にふけってゆく・・・。

 ビビッドな色を効かせたとりどりのパステルカラーが画面を埋める、夢のような美しさ。どの場面も、退廃を描きつつ明るい活気にあふれている。ここでのアントワネットは、スイーツとおしゃれが大好きで、愛されたい思いをかなえられない孤独に悩む、普通の女の子だ。

 イギリスの歴史文学者であるアントニア・フレイザーの原作にインスピレーションを受けて作られた映画で、王妃の人間としての苦悩に寄り添い、それを軸に描くことで、稀代の悪女とされるこれまでのアントワネット像を覆している点が原作と共通だが、原作のエピソードを効果的にちりばめながらも、テイストは非常に現代的。

たとえば、原作でケーキに関連するのは、コンシェルジュリーに連行された王妃の顔を、かつてベルサイユの菓子職人だった鍵番の男が見分ける場面だけだが、映画には18世紀にはなかったはずの生クリームを使った凝ったケーキが溢れているし、何度も映されるシャンペンを酌み交わす場面は、王妃は一切アルコールを飲まなかったという原作の記述に矛盾する。また、百人を超える高官にそれを世話するお付の者、57台の車と400頭近い馬を率いた壮麗なものだった実際の輿入れに比べると、映画の場面は貧弱でたかだか今いるどこかのセレブのようだ。ビジェ・ルブラン作のラファエロを意識したふくよかな母子像は、主演女優に似せた近代風絵画に換わっている。

歴史的事実の説明がほとんどされないのも特徴で、三部会召集をめぐるルイ16世と議会の攻防や、新税創設をめぐる大臣の罷免や再任、国民議会の成立などが語られないまま、映画は早足で進み、民衆によって王一家がパリに連れて行かれる場面で終わってしまう。

 原作「Marie Antoinette」は、歴史的資料はもとより、彼女自身の手紙、彼女と関わった同時代人の手紙や日記、覚書などをもとに、彼女に起こったことと彼女の反応、思いを立証した大作で、複雑に積み重ねられ検証される事実の重みと、怒濤のような歴史の足音に圧倒された。登場人物はおびただしい数で、瑣末な事柄を丹念に拾っているせいで、どれも人物も心理描写なしに淡々と描かれているのに生々しい。

ここに浮かび上がっている王妃像は、圧倒的な優雅さを誇る女性で、確かに軽薄な面をもつものの、不幸な人に共感する心優しい人物だ。

陰謀渦巻く宮廷にあって、オーストリアからは母国の利益のために動くことを期待され、片やフランス側からはまさにそのことを疑われるという板ばさみの状態の中、不毛な夫婦生活に7年も耐えねばならず、それを契機に生涯にわたって卑猥な中傷が流され続ける。

映画では、満たされない思いを浪費で埋める彼女が描かれるが、実際には王族皆が浪費家で、財政危機により王妃付きの役職が大幅に縮小されても、王の浪費は従来のまま許された。王族の女性は皆それぞれ自分の城をもっていたというのに、王子誕生にあたって王妃が慣例に背いて城を手に入れると、ごうごうの非難を浴びる。当時貴族には納税の義務はなく、莫大な出費はすべて民衆の肩にかかっていた。フランス革命は貴族と平民の戦いであったが、一面貴族と王との戦いでもあり、財政建て直しのために貴族からも徴税しようという案が彼らの猛反発に会う。アントワネットは、機能不全に陥った社会の過ちをたった一人で背負わされた“スケープゴート”だった、と作者は繰り返している。慈善家としての本人の主義や行動にかかわらず、彼女の生活ぶりは国を傾けたはずで、彼女が無罪だったとは思わない。しかし、同じことをした階級の、政治的決定力をもたない構成員の1人だった。歓呼の声に迎えられた皇女が次第に中傷とスキャンダルにまみれ、自分を敵視する群集のなかで恐怖に耐える姿は痛々しい。

 原作は、パリに連れ戻されて以降、ヴァレンヌ逃亡事件、オーストリア・スペイン連合軍との交戦、チュイルリー宮殿の襲撃、タンプル城への幽閉、裁判、処刑、革命の収束と残された者たちのその後までを描ききるが、暴力にさらされる危機的な場面で家族を守るために見せる強さや、証拠なしに進められる過酷な裁判で発揮される優れた知性も、この本を読むまでは知らなかった彼女の姿だ。

 また、戦況が不利になる度に、国内の結束を図るため王妃の罪や処刑の必要性に眼が向けられる場面には、現代にも通じる集団の力学を感じた。さらに、王には許した裁判のための準備時間や処刑前の家族との面会、誇りある最後などを、王妃にはすべて許さなかったなど、意外にも革命家たちがむき出しにした女性蔑視も、そう遠い話ではない日本の過去を思い出させた。

 身近にいた人の手記の中でも胸を打つのが、コンシェルジュリーで王妃の世話をしたロザリーもので、判決を言い渡されて独房に戻った彼女が、憲兵が監視する中、壁に頭を向けてベッドに横たわる描写は、まるで目の前に王妃を見ているような気がした。領土拡大しか関心のない祖国は彼女を見捨て、引き離された8歳の息子は靴屋に渡され、2年後に死亡する。アントワネットの人柄を慕い、その最後に寄り添った彼女とともに、元王妃のために泣きたいと思った。

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