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「あるスキャンダルの覚え書き」

2006年 アメリカ映画

 

 定年間近の歴史教師・バーバラの勤める中学校に、美しい美術教師・シーバが赴任してくる。上流階級の匂いがするシーバに惹かれたバーバラは彼女と親しくなるが、シーバが教え子のコナリーとただならぬ関係にあることに気づき、裏切られた怒りと嫉妬に狂う。秘密を守ることと引き換えにシーバへの支配を手に入れたと思ったバーバラは、次第に彼女の生活を侵食していく・・。

 シーバと親しくなる過程や、目撃した秘密を日記に記すバーバラの、孤独なうめきのようなモノローグをナレーションに物語が進行。エゴをむき出しにする攻撃的なバーバラと、恋愛への執着と家族を失う恐れの間で揺れるシーバの攻防は、緊張感に満ちてサイコサスペンスのようだった。

イギリスの作家・ゾーイ・ヘラーの原作小説のフランス語版「CHRONIQUE D‘UN SCANDALE」を読んでみた。

原作は、事件が発覚し、家族を失くしたシーバがバーバラとともに出張中の弟の家に身を寄せた時点から、バーバラが事件の全容を知る者としてそれまでの経緯を書き記す、という設定。時間軸に沿って破局に向かう映画とちがい、原作では、語り手バーバラの恣意によって場面は現在と過去を複雑に往復する。つまり、世界が徹底してバーバラの眼を通して描かれていることが、映画との決定的な違いだ。

シーバは、スキャンダルの只中だというのに、コナリーの魅力や彼への執着を悪びれずに繰り返し語り、ノンシャランとしていて、周囲の非難の中で立ちすくむ映画の彼女とは別人だ。また、映画ではコナリーとのことをバーバラに知られたシーバは、激しく動揺して彼と別れると約束し、その後も続いてしまった関係を必死に隠すが、原作では彼との始めてのキスから密会場所を探す苦労まで、逐一バーバラに語っていて、そのネタをもとに“報告書”が書かれる

始めはただシーバの描き方がちがうのかと思ったが、読み進むうちに、バーバラの語るシーバ像に矛盾を感じ、断罪に満ちてシニカルで棘だらけの彼女の記述の中に、砂利のようにウソがまかれているのに気がついた。いくら親しい相手でも、年下の相手との密会のために若い女の子の下着を身に着けた、などとは告白しないはず。出産直後のショックから立ち直ると、ダウン症の子供を天使だと気づいた、と話す母親が、彼が女の子の話をすると、「最近の子はホルモン過多なんだから」などとは言わないだろう。そもそも、何度聞いてもいつ恋が始まったのかを言わない女が、恋人とのこまごまを打ち明けるだろうか。

 バーバラは、シーバが娘のポリーの若さと美しさに嫉妬しているというが、これは自分のシーバに対する感情の投影だと思う。夫リチャードの前妻・マルシアに愛想よくしつつシーバは実は憎しみを隠している、というが、これも仮面をかぶった自分の姿だ。労働者階級の生活を見下し、コナリーの家の浴室を自分の邸宅のそれと比較して満足するシーバの高慢さは、実はバーバラ自身の劣等感と羨望の裏返しだ。

どんなに荒唐無稽なファンタジーでも、小説を読むときは作者の差し出す世界に思い切り浸るものだ。だが、この作品はひとり語りの「藪の中」のようで、書かれている世界が信用できず、事実とその歪曲、思い込みや想像の混沌を注意深く掻き分けるしかない。リチャードも、バーバラの嫉妬と嫌悪で歪み、横柄で気の小さな人物に描かれているが、記述の断片を組み合わせると、家庭に積極的にかかわる好人物。シーバはフランクで、相手の望みにそってあげたいと思う優しい苦労人で、映画に描かれた二人の姿が実際の彼らに近いのでは、と思う。

映画のエキセントリックなバーバラとちがい、原作の彼女はもっと地味で、おとなしく事の成り行きを見守る。だが、シーバに厚遇される妄想や家族へのおせっかいな批評が綴られた映画の「覚え書き」に比べ、原作のそれははるかに病的で罪深い。グロテスクなシーバ像は、小児愛者や色きちがいなどと書きたてるマスコミへの格好の供え物になるだろう。

彼女はシーバを守るためにそばにいる、というが、本当はシーバの苦しみを見ていたいのだ。その結末も。映画のシーバは夫と和解できるが、原作の彼女に光は見えず、バーバラの正体を知ったのちも、さらに狂気をつのらせる彼女の支配から逃れられない。読んでいる間、「モラルハラスメント」とか「サイコパス」という言葉が何度も頭に浮かんできた。

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