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「ゼロ時間の謎」 2007年 フランス映画

 

 アガサ・クリスティーの「ゼロ時間の謎」を、フランス人監督パスカル・トマが映画化。

 莫大な財産を持つ伯母・カミーラの屋敷に、テニスプレーヤーのギョームとその妻キャロリーヌが避暑にやって来る。そこには彼の元妻オードのほか、キャロリーヌの元恋人フレッドと、オードを愛するトマも滞在。オードが夫を取り戻そうとしていると考えるキャロリーヌと、今もオードに思いを残すギョームの間に争いが絶えない。三人を取り巻く人物たちの複雑な人間模様が渦巻く中、屋敷で食事をともにした元刑事トレヴォーズがホテルで死亡。彼は、昔自分がかかわった事件で、故意に友人を殺しながら起訴されなかった子どもの話をしていた。元刑事の死に続き、ギョームと言い争った翌朝、カミーラが変死体で発見される。証拠はすべてギョームを指し、彼が逮捕されるものの、家政婦の証言で状況は一変。結局オードが犯人だとわかるのだが・・・。

 二転三転する犯人探しが面白く、岬で男が自殺未遂する場面、捜査を担当するバタイユ刑事の娘が窃盗事件で無実の罪を着せられた話、トレヴォーズの語った子どもの事件などが、最後にすべてきれいにつながるのが心地よかった。 

 原作のフランス語訳「L‘HEURE ZERO」を読んでみた。

 もちろん舞台はイギリスで、登場人物の名前も映画とはちがっている。映画では、ギョーム(原作ではヌヴィル)がフレッド(ラティマー)からキャロリーヌ(ケイ)を奪ったことになっていて、実はキャロリーヌとフレッドが今もひそかに恋人同士であるということになっているが、原作ではケイはヌヴィルを本気で愛し、ラティマーの誘いに乗ったりしない。また、原作のケイは映画のキャロリーヌほど極端にエキセントリックでなく、屋敷の人々から鼻つまみにされるキャロリーヌと違って、夫と元妻との関係に神経をすり減らす様子を同情される。事件が解決したあと、誰と誰がカップルになって再出発するか、も映画と原作では違っていた。

 だが、二つの一番のちがいは、緊張感の強さだと思う。

 映画は、細かい人間関係を除いては原作を忠実になぞっていて、ストーリーそのものは前に書いたようにおもしろいのだが、展開に間延びのしたような緩慢さがあり、恋のさやあてをする5人の関係が原作より複雑になっているにもかかわらず、キャロリーヌの極端な人物造詣でやっと緊迫感を保っているような感じがある。

 原作では、緊張を孕んでテラスにたたずむオードレイとケイをトーマスが見つめる、一緒に踊るケイとラティマーを怒りを含んだ眼でヌヴィルが見つめる、次に、踊り終わった二人が一緒にいるヌヴィルとオードレイを見つめる・・というように、それぞれ登場人物の視線の先に別の人物が連鎖するように描写される。そして、緊張のみなぎるその輪に向かって、今度はバトル刑事が鋭い視線を投げ、一人ひとりが洞察されていく。小説のこの手法を映画がカメラワークで再現すればよかったのではと思う。

 また、恨みをはらすために長期間にわたって犯罪を準備する者と、その近くにいて次第に精神を病んでいく者の叙述は、やはり原作の方が詳しい。一見正常どころか非常に魅力的にさえ見えながら、いびつで強烈な自己愛のために巧妙に相手の破滅を図る人物像は、まさに“モラルハラスメント”の加害者。相手との関係に不穏で不当なものを感じながら、その不安の正体が分からず、異常なのは自分の方なのではと、恐怖の中で思考停止になる被害者像も、モラルハラスメントを考察する書物の記述と一致する。非常に現代的な犯罪を描きながら、1944年の作品だということに驚いた。

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