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「英国王給仕人に乾杯!」 

2007年 チェコ・スロヴァキア合作映画

 

 第二次世界大戦前から1960年代初めまで、激動のチェコスロバキアを生きた小さな男ヤン・ジーチェの物語で、イージー・メンチェルによるボフミル・フラバル原作の映画化第6作目。
 百万長者になる夢を抱いたヤンは、駅のソーセージ売りから始まって、田舎町のホテルの見習い給仕、ついで国際商人専用の高級娼館チホタホテルの給仕、そして最高級のホテル・パリの給仕へと出世街道をのぼって行き、ついにはホテルのオーナーになる。その半生を語るのは、共産革命によって財産を没収され、15年の刑を終えて監獄から出てきた年老いたヤンだ。
 モノクロで映されるソーセージ売りの場面もそうだが、カラーに変わってからも、まるで昔の無声映画のようなコミカルな動き。それに、チホタホテルで、富豪たちが美女をはべらせて豪勢な食事をし、おいかけっこをし、あとは三々五々にベッドインする場面や、ホテル・パリで円卓に寝そべる半裸の美女を眺めながら富豪たちが飲み食いする場面、ナチの将校と純血のドイツ女性がたわむれる場面さえ、退廃と堕落を描いている映像が、どこまでも光に満ちて牧歌的だった。
 すばしこくて抜け目のないヤンは運にも恵まれ、降りかかった不運もすぐに吉へとどんでん返る。面白いことに、毎回彼を次の職場に推薦してくれるのは同じように背の低い商人ヴァルデン氏だし、彼に勲章を授けたエチオピア皇帝もかなりのチビ。そして、彼と結婚するドイツ人女性リーザも背が低い。
 つまり、彼のサクセスストーリーは背が低いおかげで、リーザとの結婚によって、優生学研究所といういわば体制の思想の中枢に身を置いたりもする。だが、彼がいるポジションは、いつも誰かの日陰だし、優生学研究所では、女性たちの目からは存在さえしていない。
 老ヤンがビールジョッキをのぞくのに続いて若いヤンがビールをついでいる場面になったり、老ヤンが同じように罰を受けて森で暮らす若い娘マルチェラを追いかける場面に次いで、チホタ荘で大富豪が美女を追いかける場面が映されたり、昔と今のイメージが連想のようにきれいにつながっている。
 一方、過去のヤンの気楽に見える様子と入れ替えに映されるのは、ヒトラーによるチェコ併合にともなう重苦しい現実。ヤンが勲章をかけた自分の姿にうっとりしている傍で、ラジオがヒトラーの演説を流しているし、リーザとの結婚にふさわしいかを検査されるために精液採取をしている同じ時間に、若者たちが反乱分子として処刑される。
 リーザはヒトラーの優生思想にかぶれていて、ドイツ民族による解放を信じ、ヤンとの結婚も、彼の祖父がドイツ名だったことなしには考えられない。だが、ヤンはそれを屈辱とは感じず、自分より小さい彼女を守らなければ、と思っている。
 彼女との出会いは、チェコの青年たちが彼女の白靴下を奪おうとしているところを助けたこと。襲われている少女を助けるのは情けも勇気もある行動だろう。その子が可愛ければ恋をするだろう。だが、彼の頭からは、周囲や自分の行動の社会的な意味は抜け落ちているのだ。だから、ハイル・ヒトラーの敬礼をしたリーザを座らせまいとするホテルの同僚の抵抗は、彼にとってはただの嫌がらせでしかない。
 だが、戦争に行くリーザを見送った駅で、貨物列車で輸送されるたくさんの人間の中にヴァルデン氏を見た瞬間、パンを渡そうと思わず走り出す。それはリーザを助けた時と同じで、つまり、彼は当時を生きた、愚かで浅はかだが善意もある普通の人なのだ。リーザも同様に、ナチの時代を生きた、普通のドイツ人なのだろう。
 一方で、蓄えた富で大食を楽しんでいたかと思うと、忍び寄る戦争の影を敏感に感じ、ついには貨車で収容所に送られるヴァルデン氏や、ナチに最後まで抵抗してゲシュタポに連行される誇り高い給仕長の姿が忘れられない。
   原作のフランス語版「moi qui ai servi le roi d’angleterre」(英国王に給仕した私)を読むと、過去と現在が交互に映し出される映画と違い、回想は過去から現在へと順にたどられる。主人公の足取りはより長く、優生学研究所のあと、ロシア戦線に向かう前の将校たちの逢引に利用されるホテル、次いで軍の食堂でも勤務。レジスタンスと間違われてナチに逮捕される場面もあり、終戦後は、ホテル開業の前に対独協力の罪で禁固刑を受ける。ホテルの開業自体も曲折があり、革命政府の収容所で過ごした後、映画と同じく大学教授と若い娘と共に森林で働くが、そこを離れた後も、一人山深い土地で孤独な作業を強いられる。

 原作の登場人物はおびただしく、最初に給仕になった店の個性的な常連たちが細かく描写されるし、主人公の子ども時代の祖母との暮らしも語られる。リーザとの間には知的障害の子どもが生まれ、空爆時も金槌で床を叩き続ける。ナチから釈放された時に一緒だった、住んでいた村を村人ごと消された男のエピソードや、かつては店の給仕長で、今は革命政府の高官になった男の話も印象的。

 一方、詩的で牧歌的な描写が多いのは映画と同様。先に書いた、高級娼館や最高級ホテル、優生学研究所の場面の他、ヴァンデル氏が床に札を敷き詰める場面や、甘い飲み物を全身にかぶった娼婦の後をミツバチが群れる場面、主人公が、花や、饗宴のあとに残された海の幸や果物で飾った恋人の裸体を、鏡に映す場面、エチオピア皇帝をもてなすためにラクダが料理される場面など、映画の印象的な場面はそのまま原作にあり、映画は、これらの絵画的なシーンを活かしながら、長い原作を巧みに編集していると思う。

 主人公の抱えるコンプレックス、見返したい願いからくる強い上昇志向。原作では、給仕長がかつて英国王に給仕したということ以上に、主人公がエチオピア王に給仕したことが繰り返し強調される。思わぬ不幸に襲われたり、不思議な偶然に救われたり。人生につきもののそれらが、自分だからこそ、という選民意識で大仰に語られる。彼の話には、劣等感や疎外感を避けるために、事実を自分に都合よく曲げて解釈している部分や、真実を言っていないのではと思わせる部分が多く、また自分の行動に続く重大な結果をわざと語っていない部分もある。その一方、モラルに欠けていて、小さな盗みから、ユダヤ人から略奪した切手を資金に使ったことまでを平気で告白している。そして、卑屈さや尊大さ、損得勘定や周囲への無関心に混じって、罪の意識が時折顔をのぞかせる。

背徳の場面が比ゆの多い美しい自然描写で飾られ、日常の背後に重い歴史がきしむ。滑稽さと悲惨さ。混沌の中から、死の幻想が立ち上る。壮大な寓話のようだった。

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