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「海の沈黙」  1947年 フランス映画

 

 ドイツ占領下のフランスで地下出版されたヴェルコールの同名小説を映画化した、ジャン=ピエール・メルヴィルの処女作。

 一人の男が街頭に立つ男に近づき、足元に鞄を置いて去る。その鞄を開けると、中には書籍が入っており、そのページを開くと映画のタイトルが現れるという、抵抗運動だった原作の出版を示す場面から映画は始まる。

 1941年の冬のある日、老人が姪と暮らす家にドイツ兵がやってきて、ドイツ軍将校に部屋を提供することに。3日後に将校のヴェルナー・フォン・エーブルナックが現れるが、二人は相手がいないかのように彼を無視。相手のあいさつにも話しかけにも沈黙で答える。

 ヴェルナーは威圧的でないばかりか礼儀正しく、彼らに返答を強要しないまま一人語りを続けるが、雨の振ったある日、ずぶ濡れになった彼は軍服から私服に着替えて現れ、自分は作曲家で、子どもの頃からフランス文化に憧れていた、雪までがフランスでは繊細だ、とフランス崇拝を打ち明ける。

 だが、一方でヴェルナーは戦争を肯定し、この戦争がドイツとフランスによい結果をもたらす、両国が結婚することにより、優れた文化の融合が起きる、フランスは美女でドイツは野獣、ドイツの残虐な性格を治すにはフランスの相互愛が必要だ、と語る。

 姪の美しさに賞賛の視線を送りながら語る「美女と野獣」のたとえや、「結婚」、「愛」の言葉は、彼の信念と同時に、姪への思いの吐露であり、老人は、それを感じた姪の動揺を見抜く。

 三人だけが登場する狭い部屋、壁の暖炉にともる火、話している側と聞いている側両方の緊張が張り詰める。

  ところが、ヴェルナーは二週間の休暇でパリへ。戻ってきた彼は、二人に顔を見せなくなっていた。老人は彼が来た当初、敵とはいえ礼節の人を傷つけることに心を痛めるが、以前のように話に来なくなると、自分の仕打ちの結果かと思い困惑する。二人とも、次第に彼の存在に慣れ、語りを待っていたのだ。

やっと姿を現したヴェルナーは軍服姿で、それまでの言葉を恥じて、パリでの苦い経験を語る。ナチスの大量虐殺の事実を楽しそうに語る友人、敵の毒牙を抜くため、フランスの精神と文化こそ破壊しなければならないという仲間。自分の理想が幻想だったと悟った彼は、前線を志望していた。

善意の人でも占領者は占領者だ。だがもし、戦争以外で出会っていれば、彼らは文学や音楽について語り合う友だったろう。姪はヴェルナーを愛したかもしれない。やっと現れた彼に「入りなさい」と初めて声をかけた老人。前線に行くという話に思わず口を開きそうになったのを、ヴェルナーが立て続けにしゃべって機会をそぐ。ドイツ軍の正体を知った今、彼は、老人を最後まで沈黙させたかったのではないだろうか。

 だが、ヴェルナーは、姪の言葉は辛抱強く待った。彼のさよならに答えた、彼女のたった一言に、彼は満足してドアを閉める。老人の声は、ナレーションでもあるが、映画のなかで、姪が発するのはこの一言だけ。初めて正面からクローズアップで捕らえられる彼女の輝く美貌。まっすぐに上げた視線。その口から出るのは、二度と会うことのない別れの言葉だ。

 家を立ち去るヴェルナールは、老人が本にはさんだ記事に気づく。そこには「罪深い命令に従わない兵士は素晴らしい」と記されていた。老人が、沈黙を守りながら、彼に贈ったことば。余韻のあるラストも素晴らしかった。

 原作の「Le Silence de la mer」を読んでみた。もちろん映画の冒頭場面はないが、その他は、細f4b903e24b799bf0かい部分までほとんど映画そのまま。物語は老人の語りで進み、彼の前で一人語りをするドイツ人将校と、彼のそばで編み物を続ける姪の様子が、彼の眼を通して描写される。

父の影響や幼少の頃の思い出、許婚だった女性が虫の足をもいでショックを受けたことなど、ヴェルナーが語る細かいエピソードも同じで、メルヴィルが、厳密といえるほど原作に忠実に撮ったことがわかる。ヴェルナーが片足をひきずって歩くことや少し猫背な長身など、人物の外見もそのままで、姪の美しさを表す文章を読んでいると、女優の透明で硬質な美しい顔が浮かび、青灰色の瞳の描写は、モノクロだったはずの映画の瞳が、その色に染まって思い出されたほどだ。

ただ、ひとつ違いを言えば、原作ではナチスの大量虐殺は触れられていず、ヴェルナールの落胆は、ドイツがフランス支配にあたって行った懐柔政策の欺瞞に集中していて、これこそが作者が暴きたかった事実だろう。

また、原作の語り手は、わずかだが、映画の老人よりもヴェルナーから心理的に距離を置いているように見える。別れをいいに来た彼に、映画の老人は躊躇なく「入りなさい、ムッシュー」というが、原作では、迷った末の行動で、なぜ丁寧な言い方をしてしまったのかと自問するし、映画と違って別れの間際に彼のための言葉を贈ったりしていない。むしろ、苦しげに「どんな道を行けばいいのか」と悩むヴェルナーに対し「彼でさえ屈服するだろう」と心でつぶやく。だが、矜持を示すいくつもの自問に、苦悩する青年を前にした語り手の深い動揺が感じられた。

一方、原作の語り手の、ヴェルナーを観察する目は非情に冷徹で、彼の顔に浮かぶどんな細かい表情の変化も逃がさず、絶望のために顔から表情が消えている時も、手の動きに深い苦悩を読み取る。その描写はヴェルナー自身の心情の吐露よりも雄弁で、それ自体が、フランスの文化を心から愛する繊細で誠実な青年への共感となっている、と言えると思う。

 

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